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今、日本人はZIPPEIに何を語りかけるべきか? ~精神枯渇の日本に明日はあるか?~

2012年10月23日 15:26

ZIPPEI PHOTO BOOK

報道と言うのは、人間の持つ尊い部分も世に知らしめる事もあるが、何事も綺麗事第一面倒絶対嫌な似非国家日本の場合は少し捻りがあって、その多くが人間の持つ最も醜い部分を垂れ流すばかりである。

今日“珍しく真面目な話”として取り上げるこの話については前段階があって、“吠えて都合が悪いので声帯除去”を施された番組出演犬が後に移動車の中で放置された挙句に熱中症死という非業たる死を迎え、当時も散々批判三昧と言う事があった事を念頭に置いて欲しい。

さて、そんな“批判”に晒された番組制作サイドだが、事が犬とは言え“生命”に関わる事であり、何時もの“飛ばし”とか“行き過ぎた報道”等とはけた違いの話だったので流石に反省の一つもしてると思ったらお間違いだったの巻でござると言う事で‥。

人間の尤も醜い部分を具現化した本の価格、1050円(税込)

ここで最初の画像の中で注目して欲しいのは左上の“ホットドッグ”である、言うまでもなくホットドッグは“蒸した(又は焼いた)ソーセージ”をパンで挟む食品である、そしてこの本の主人公は先に書いた通り移動車内放置による熱中症死と言う事と併せ考えれば容易に思いつく事として様々な“否定的感情”が湧き上がるのは間違い無い、既にAmazonのレビューでは129レビュー中、9レビューの星5つを除き全て星1つとその評判の余りの宜しさに思わず苦笑した物である。

まぁ自分達の身勝手な御都合一発で声帯除去と言う虐待を行い、挙句の果てには管理の不始末、と言うより命を小道具程度の認識しか持たぬ夏の車内放置により熱中症死させると言う死亡したのが“人間”であれば立派な刑事事件となる事に至っただけでも十分下劣非道の指弾は免れぬ話だが、更にその非業の死を商利用するというもはや鬼畜の極めのキャッチコピーが『ありがとう』人間として如何な物か?

仮に被害が“自分の飼い犬”だとして彼らは同様の事が出来るのか知る由も無いが、この有様が日頃の報道で散々綺麗事を喧伝し、自分達こそ“社会の木鐸”として世をリードすると常に上から目線で“世に問う”報道者の姿なのだとしたら日本の報道は上っ面はご立派に綺麗事で飾ってるだけに始末に負えぬ存在としか言い様が無い。

国内の事件や災害、そして国外の紛争で“命が失われる”報道をする文末に方程式の如く“命の尊さ”を喧伝するその口が渇かぬ内に“命ある小道具”の扱いは粗末な上に死して尚ハイエナに骨までしゃぶられ続けるがの如くの扱いをする、こう言うのをエゴイストと言うのだろうか、欺瞞と言うのだろうか、それとも此れ等を遥かに超える人間の醜い何かなのか?

呆れて開いた口が塞がらぬとはまさにこの事を示すのであろう、そこでヲレは日本全国の義務教育現場の者(つまり教師)に提言したい‥

今、日本人はZIPPEIに
何を語りかけるべきか?


‥と言う特別授業を実施すべきと、悲しくも失われた命ではあり人間的自分勝手な御都合でもあるがこの事象は“命の尊さ”を子供達に問い学ばせる恰好の機会とも言える、失われた尊い命を無駄にせぬ為にも是非実行していただきたい。

話は変わるが、この問題は物資“だけ”豊かになった代価として日本古来より累々と流れてた筈の“精神的豊かさ”の喪失を判りやすく示しているのでは無いか‥と言うのは斯様な鬼畜外道を“批判”する輩も五十歩百歩の下劣振り、エゴイストぶり救い難しと言う状況からも嫌になる程に判らざるを得ない。

発行する奴も糞だが批判する奴も似たり寄ったりのロクデナシ

此れは見るに堪えぬ話である、何故“番組出演犬の死”や“それを骨の髄まで商利用する鬼畜”に対する批判と“韓流”が関連するのだろうか?日頃自分の不満を“反韓流”で憂さ晴らしをするまではそれによるあらゆる責任を背負う覚悟があれば構わぬ話と言って差し支えは無い、しかし“報道(局)批判”と“反韓流”の安易又は恣意的混同は、それ自体が日頃自分達で批判する“偏向報道”とその本質的意味に於いて如何なる相違点があるのだろう?

更に書けば上記の“反韓流による責任”すら自覚せぬで単なるエゴイズムによる発露とか“反韓流”を言う俺かっこいいとか言う無思考な言動はそれ自体が唾棄すべき話と何故思わないのだろう?そしてヲレが最も恐れてるのは生命の尊さの自覚すら全く無いままに斯様なお祭り騒ぎに励むと言う“日本精神の枯渇による日本国体の崩壊”が見え始めている事である、命の尊さを軽視する奴に限って一見大切に可愛がる様に見えるが実態は飼い犬をまるでファッションアクセサリーの如く扱い、酷い場合は飼い切れぬで放棄するとか、斯様な問題はネットで検索すれば沢山出てくる、ヲレの気を引いたのは“豆柴問題”であるが、詳細は割愛するので自分で確認して欲しい。

犬畜生とは言えそれは尊い命を地球上で育む“地球村の大切な同居人”である、少なくとも“使い捨ての小道具”では無いとだけは断言出来る、次にこの詩を掲載しておきたい。

犬の十戒

私の一生はだいたい10年から15年。あなたと離れるのが一番つらいことです。どうか、私と暮らす前にそのことを覚えておいて欲しい。

あなたが私に何を求めているのか、私がそれを理解するまで待って欲しい。

私を信頼して欲しい、それが私の幸せなのだから。

私を長い間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないで欲しい。あなたには他にやる事があって、楽しみがあって、友達もいるかもしれない。でも、私にはあなたしかいないから。

話しかけて欲しい。言葉は分からなくても、あなたの声は届いているから。

あなたがどんな風に私に接したか、私はそれを全て覚えていることを知って欲しい。

私を殴ったり、いじめたりする前に覚えておいて欲しい。私は鋭い歯であなたを傷つけることができるにもかかわらず、あなたを傷つけないと決めていることを。

私が言うことを聞かないだとか、頑固だとか、怠けているからといって叱る前に、私が何かで苦しんでいないか考えて欲しい。もしかしたら、食事に問題があるかもしれないし、長い間日に照らされているかもしれない。それか、もう体が老いて、弱ってきているのかもしれないと。

私が年を取っても、私の世話をして欲しい。あなたもまた同じように年を取るのだから。

最後のその時まで一緒にいて欲しい。言わないで欲しい、「もう見てはいられない。」、「私ここにいたくない。」などと。あなたが隣にいてくれることが私を幸せにするのだから。忘れないで下さい、私はあなたを愛しています。


くどい様だが失われたのは“命”であって“道具”では無い、命の尊さを自覚せぬ者は、その命も粗末に扱われる運命とヲレは思う。


最後に上記に書いた“特別授業”だが、その答えとして『ごめんなさい』というのは“D判定(不可)”であるべきだ、“命”を取り扱い損なったと言う重大事案に対し『ごめんなさい』で済まされたのでは殺された犬はたまったものでは無い、なれば如何なる言葉が相応しいかについては各自考えて欲しい。

ヲレも折を見て考えるが、恐らくその答えなんてこの世を去るまで決定しない事だけは予感している。

それ程にこの事案の持つ重みは半端では無い筈だ。
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